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筑摩書房
グループ:Book
ランキング:35452
価格:¥ 945
発売日:2003-12
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言葉以上の認識
(2008-08-13)
若い頃は、言葉で表わせないことはないと思っていました。
そのことに違和感を感じ始めて何年も経ちました。
「暗黙知」という言葉が、私の考えていたことをまとめてくれたようでこの本を読んですっきりしました。
まず、「暗黙知」という言葉を説明したいと思います。
「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。」ということです。
私たちは、言葉に頼って生活し、言葉が全てのように錯覚してしまいがちです。
日常くり返される些細なことに始まり、形式ばった会議や式典も、一見そのやり方や一連の流れを全て明示的に書き記して、他者に伝えることができそうな気がしますが、それは無理なことです。
人間のそれぞれの意識には自覚していないだけで、何かに厳然と存在している実体のようなイメージがあります。これは心理学のいう「無意識」ではありません。
ポラニーがいう暗黙知は、「われわれの知識のほとんどすべてが言語的な作用によって編集構成されており、その言語的な作用の大半がアーティキュレーション(分節性)によって構成されている。しかしながらこの言語的分節をもってしても解明できない知識がわれわれのどこかに潜在していて、その潜在性の出入りによってこそ言語的分節も成り立っている」というものです。
この潜在的な知識、それこそが、「暗黙知」なのです。それをどうやって言葉で他者に伝えるか、というのは間違いなくできない相談であるにもかかわらず、人間はそれをしようとしてしまいます。矛盾です。
私は、特に書き言葉においては、それが顕著に現れると考えています。
科学の進化における暗黙知の役割(科学哲学の本)
(2008-01-03)
知識経営のコンテキストで本書を読んだ。
本書で論じている「暗黙知」は、知識経営で使用している「暗黙知」よりさらに根源的なものを意味している。知識経営における「暗黙知」は形式知で表現できない知識という意味で用いられるが、本書における「暗黙知」は、科学の進化を哲学的に解釈するための道具として位置づけられている。すなわち、形式知(の演繹)だけからは新しい知識(創発)は生まれない。創発には暗黙知が大きな役割を果たしており、科学の進歩には暗黙知が不可欠。さらに、暗黙知はすべての明示的な認識に意味を与えるものであり、人間の存在価値にもリンクしたもの(神の手)でさえある。
自然科学はある特定の人が「探求者」となり、暗黙知によって科学を進歩させてくれれば、多くの人はその恩恵に与ることができる。しかし、自然科学と比べるとマネジメントは形式知の積み重ねで定義される側面が弱い。その分だけ個々人の暗黙知の果たす役割も多くなる。すべてのマネージャは、自らが本書で言うところの「探求者」となって、形式的な知識(マネジメントの理論を含む)と暗黙的な知識を統合し、日々のマネジメントの中で新しい知識と行動を創発する必要があるのかもしれない。
暗黙知、創発
(2007-04-21)
印象に残ったことは次の2点でした。
暗黙知といわれる最近はやりの言葉いえば潜在意識というものがある。創発という現象でしか、現在の問題を解決できない。
”お前はすでに知っている”といったところでしょうか。
科学的探究の源
(2006-08-29)
<私は人間の知を再考するにあたって、次なる事実から始めることにする。すなわち、私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。>
著者はこう宣言して、科学的探求(著者はもともと医学者で化学者で物理学者である)の自立性・自律性を立証しようとする。著者によれば、科学はどんなイデオロギーにも従属せず、そこに言葉にできない知=暗黙知がある限り(それはすなわち永遠である)、それを言葉にしようとする探求はその事実から正当化されることを解き明かす。共産主義時代、5カ年計画遂行のためのみに科学を利用しようとした指導者の言葉への反発からスタートして著者はこのような主張にたどり着いた。
オリジナルの「暗黙知」は巷で使われている語用とちょっと違って、随分大仰で、ちょっとナイーブな感じもするけれども、学者としての良心が感じられる一冊である。
アタリマエといっちゃアタリマエ
(2005-10-26)
ある意味この本が「衝撃」と捉えられたのは、あまりにも西欧の「知」が現在に至るまで言語的な知に偏り過ぎていたからにほかならない。日本というさまざまな思想の交差点に暮らすわれわれは、すでに禅的な「ただ座る」ことによったり、武道の型稽古であったり、小津安二郎の映画であったり、囲碁や将棋の図形的思考といい、そういう言語によらない知のかたちをすでに歴史的に経験してきた。むしろ、人生の早い段階から老荘に親しんできたわたくしからは、非言語的な知を言語的な知の上位に置くのが当然であったために、本書は衝撃でも何でもなく、どうしてこれほどわかりきったことをみなが絶賛するのかがまったくわからなかった。西洋哲学史を学ぶことで、どれほど本書が知の歴史から外れた異端であることがようやく理解できたほどである。
だから、ある意味本書がどれほどの衝撃を持って受け止められたかということが、そのひとの知のかたちを知るための試金石だということにならないだろうか。わたくしにとっては、ホントウは本書の内容はあまりにありきたりに過ぎて二つ星以下だった。

